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福岡地方裁判所 昭和47年(ワ)609号 判決

原告 外山宏美

被告 福岡市 ほか六名

訴訟代理人 泉博 入江勝利 ほか三名

主文

一  被告井上環及び被告福岡市は各自原告に対し金六五三万一七二三円及びこれに対する昭和四六年八月八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告井上朗、同井上泰治、同井上憲行、同宮永和子及び同井上俊次は原告に対し各金一〇八万八六二〇円宛及びこれに対する昭和四六年八月八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告の被告らに対するその余の請求はいずれも棄却する。

四  訴訟費用中補助参加によりて生じた分は補助参加人の負担とし、その余はこれを五分し、その三を原告の負担、その余を被告らの連帯負担とする。

五  この判決は第一、二項に限り仮に執行することができる。ただし、被告福岡市において金一五〇万円の担保を供するときは、同被告に対する右仮執行を免れることができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告福岡市及び同井上環は原告に対し、各自金二六九〇万六八八四円及びこれに対する昭和四六年八月八日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告井上朗、同井上泰治、同井上憲行、同宮永和子及び井上俊次は原告に対し、各金四四八万四四八〇円宛及びこれに対する昭和四六年八月八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁〈省略〉

第二請求原因

一  事故の発生

1  原告は昭和四三年一一月二〇日に出生し、本件事故当時二年九か月の幼児であり、訴訟承継前被告亡井上泰行(以下亡泰行という)は福岡市博多区川端町一四番三〇号において内科及び放射線科の診療所をもつ医師であつて、被告井上環(以下被告環という)はその長女である。

2  本件事故は、昭和四六年の夏期休暇に、福岡市立博多第二中学校がその一年生の生徒に対し、宿題として「家庭でできる実験・観察・研究」を課し、生徒が家庭においてその実験中、劇物水酸化ナトリウムの飽和溶液の入つたコツプを原告が誤つて飲み、それによりその食道部分に重大な傷害を受けるに至つた事件である。

3  右一年生の理科担任教師杉延孝(以下杉教諭という)は、昭和四六年夏期休暇の宿題として、右のごとく「家庭でできる実験・観察・研究」を生徒に課し、そのためのテキストを配布した(以下本件テキストと略称する)。

昭和四六年八月七日午後二時頃から、原告の実姉外山(旧姓田中、以下同じ)真奈美(当時一二年)は級友である井上真由美(被告環の二女)とともに右外山宅において、本件テキスト中の「コツプの湯に、チオ硫酸ナトリウム(または、他の薬品)を溶かし、よくかきまぜたとき底に薬品が少し残るようにする。この飽和溶液を他のコツプに入れかえ、図のようにチオ硫酸ナトリウム(または、他の薬品)の小片を糸でつるして静置して」おき、「すべての結晶に共通なことがらを調べてみよ。また、できるだけ大きな結晶をつくるためには、どうすればよいか考えよ」を実験することとなつたので、井上真由美は右実験に必要な薬品中、自宅にあるものは持参する旨外山真奈美に約し、実験前日たる八月六日夜、その母被告環に対して右薬品の交付を要求した。

ところで、右夏期休暇の宿題には、右のごとくチオ硫酸ナトリウムを使用する結晶の実験の他に、水酸化カリウムまたは水酸化ナトリウムという劇物を使用して、「あきカンに水酸化ナトリウムの水溶液を七分目くらい加え、中に材料の葉を入れてときどきかきまぜながら熱すると、葉肉が水酸化ナトリウムにおかされるので、液の色はやがて茶色になり、しだいにこくなる。約二〇分後(葉の種類や液のこさでちがう)、下じきの上にとり出し、水をすこし注ぎながら古ブラシでたたくと、葉肉がされいにとれる。」という葉脈標本の実験もあつた。

そこで被告環は、右水酸化ナトリウムでも結晶の実験に役立つものと考えて、食塩および劇物たる水酸化ナトリウムの二種類をそれぞれ別の袋に入れ、右劇物につき何らその旨の表示をすることなく、これを娘の井上真由美に手渡したのであるが、井上真由美は水酸化ナトリウムを、結晶の実験に必要なチオ硫酸ナトリウムのつもりで受取りこれを翌日外山方に持参した。

4  外山真奈美及び井上真由美は、昭和四六年八月七日午後二時頃から、外山方において結晶の実験を開始し、劇物水酸化ナトリウム(チオ硫酸ナトリウムと誤認する)の錠剤二〇個をコツプの湯に溶かした飽和溶液を「できるだけ大きな結晶をつくる」ため一たん冷蔵庫に入れて水分の蒸発を試みたが、これに失敗した後、冷蔵庫の傍においていたところ、たまたま外から帰宅した原告は、来客に紅茶の用意をしていたその母(原告法定代理入親権者母外山富久子、以下単に外山富久子ともいう)の背後において、暑さのための渇をいやそうと右飽和溶液の残つたコツプを冷水と誤つて口にしたため、劇物水酸化ナトリウムの炎焼作用により食道に重大な傷害を生じるに至つた。直ちに開業医の診療を得た後、九州大学医学部附属病院第二外科病棟に入院加療したが次第に食道狭窄の症状が明らかとなり、入院加療にも限界があるので、昭和四六年一一月三日退院し、その後は月に二回ブジーによる食道拡張手術が必要となつた。しかし、この手術をもつてしても、症状の軽減は一週間ないし一〇日に止まり、それ以上経過すると食物の刺激によつて激しく嘔吐(吐血を含む)をきたすようになり、現在流動食その他食物に厳しい制限がありそれ以外は摂取できず、その健康につき今後の見通しは決して明るくない実状である。

二  被告らの責任

1  本件で問題となつている水酸化ナトリウムは、医薬用外「劇物」であつて、単なる「劇薬」ではない。劇薬ならばその取扱いは「薬事法」によつて規制されるが、劇物は「毒物及び劇物取締法」(以下「取締法」という)によつて規制されるのであつて、その取締りは劇薬の場合に比べて一層厳しい。たとえば両者には次のごとき相違がある。

(一) 劇薬を業として第三者に販売等することは、一般販売業者等の業者でなくてはできないが(薬事法二四条)、劇物については、業とするか否かにかかわりなく、販売業の登録を受けた者でなければ販売等をすることができない(取締法三条三項)。

(二) それ故に、容器等の表示の仕方についても相違があり、劇物の容器には、「医薬用外」の文字及び白地に赤色をもつて「劇物」の文字を表示することが必要である(薬事法四四条二項、取締法一二条一項)。また劇物の貯蔵については、劇薬の場合のように単に他の物と区別して貯蔵するだけでなく(薬事法四八条一項)、その貯蔵場所に「医薬用外劇物」の表示をしなければならないし(取締法一二条三項)、盗難紛失を防ぐのに必要な措置を講じなければならない(取締法一一条一項)。

(三) 劇薬は一四才未満の者には交付できないが(薬事法四七条)、劇物は更に年齢が引上げられて一八才未満の者には交付できないことになつている(取締法一五条)。

(四) 更に、法律に違反したときの罰則も劇物の場合は劇薬の場合に比べて一層重い。

2  被告福岡市の責任

杉教諭は、福岡市立博多第二中学校における理科担任の教師として、取締法一五条に劇物を一八才未満の者に交付してはならない旨の規定があるにもかかわらず、これを意に介することなく、劇物である水酸化ナトリウムを使用する実験を中学一年生にすぎない幼い生徒に家庭での夏期宿題として課したのであり(かりに右は宿題ではなく自由課題であつたとしても、課せられた生徒のなかにその課題を実験する者があることは十分に予想できることであるから、自由課題であつたことはなんら被告福岡市の責任を減免しない)、しかもその取扱いを一歩誤ることがあれば人の生命・身体に重大な障害をもたらす劇物を使用する実験のあることを事前に学童の保護者に連絡して、その危険性につき注意を喚起すべきであつたのにこれを怠つた過失によつて、被告環および亡泰行の各不法行為とあいまつて原告の前記傷害を発生せしめたものであり、従つて被告福岡市は国家賠償法一条一項により原告の蒙つた後記損害を賠償すべき義務がある。

3  亡泰行の責任

亡泰行は、取締法二二条五項に規定する劇物の業務上取扱者として、劇物の盗難紛失を防ぐために必要な措置を講じなければならないにもかかわらず(取締法一一条一項)、これを怠り漫然とその診療室薬棚に本件劇物たる水酸化ナトリウムを入れた容器を置いていた過失により、被告環が右劇物をその二女真由美に手渡すことを可能ならしめ、もつて本件事故を惹起したものであるから、原告の蒙つた後記傷害を賠償すべき義務がある。

4  被告環の責任

被告環は、「結晶の実験」に必要なチオ硫酸ナトリウムが診察室の薬棚になかつたので、「結晶の実験」とは全く種類を異にしその記述されている箇所も三ページも離れている「葉脈の実験」の項に眼をやり、そこに記載されていた水酸化ナトリウムでも「結晶の実験」のために役立つものと安易に考えたものであつて、そこにまず同被告の過失があるが、更に同被告は劇物を取扱う資格がないのであるから、翌朝業務上取扱者たる夫の被告環補助参加人兼亡泰行訴訟承継人被告井上俊次(以下単に被告俊次という)に対し交付を求めても十分実験には間に合つたし、劇物の危険性に鑑みてそうすべきであつたのにこれを怠り、医薬用外劇物であることを十分知悉しながら水酸化ナトリウムの容器の中からその定剤二〇個を取出して、これを一八才未満の娘井上真由美に交付したのであるが、その際被包紙に取締法の要求するところに準じて「医薬用外劇物」の表示をなすべきであつたのにこれを怠り、単に水酸化ナトリウムとのみ表示して交付した過失により本件事故を惹起したものであるから、原告の蒙つた後記傷害を賠償すべき義務がある。

三  損害

1  逸失利益

原告は、本件事故当時二年九か月の女児であつたが(逸失利益の計算においてはこれを三才とする)、本件事故により、胸部臓器の機能に著しい障害を残し、終身労務に服することができなくなつたというべきであり、一八才から六七才まで稼働して昭和四八年度賃金センサスの産業計・企業規模計の女子労働者の年齢計の給与年間八四万五三〇〇円を得たと推定され、これに右就労可能年数の四九年を乗じて、さらに、新ホフマン式計算方法により年五分の割合による中間利息をこれから差引くと、その単利年金現価総額は一四六六万〇八八三円となるので、右金額が本件事故による原告の逸失利益である。

2  治療費

原告は、さきに述べたごとく、食道狭窄の症状に対し、少なくとも月二回の入院によりブジーによる食道拡張手術が必要であり、原告の法定代理人らは本件発生の日より現在まで九州大学医学部附属病院に九四万一八〇一円の治療費を支払つたので、原告はこれと同額の損害を受けたこととなる。

3  看護料

原告は、右の手術の必要から昭和四六年八月七日より昭和四九年四月一七日まで合計二三四日間右病院に入院し、その間その母の看護を受けたので、その看護料を一日一三〇〇円と計算して、合計三〇万四二〇〇円の損害を受けたというべきである。

4  弁護士費用

原告の法定代理人親権者両名は、原告のため、弁護士たる原告訴訟代理人に、本件訴訟を委任し、その着手金として一〇〇万円を支払つたので、原告は右同額の損害を受けた。

5  慰謝料

原告には、将来回復の見通しの容易ならざる重大な後遺症が残り、流動食のごときやわらかい食物以外は摂取することができず、月二回はブジーによる食道拡張手術のため入院が必要であるが、それさえレントゲン線や麻酔の人体に対する影響が限度に達して困難となり、かくて、月の半分以上は吐血をまじえた嘔吐の中で暮さなければならず、人としての生活は失われたものとみなくてはならない。かくのごとき現状にあつては、就学年齢に達して普通の義務教育を受けるにも細心の注意を要するばかりか、将来女子として結婚のできる見込みもなく、人間として死にも比すべき精神的損害を受けたものであつて、その精神的苦痛に対してはこれを金銭に評価することは不可能であるが、あえて金銭に換算するとすれば、昭和五〇年の自動車損害賠償保障法施行令別表にある後遺障害等級表の第三級保険金額に準じ、慰謝料として一〇〇〇万円の支払を受けることが相当であると思われる。

四  承継

亡泰行は昭和五〇年五月五日死亡し、その権利義務の一切は、子供である被告環、同俊次、同宮永和子、同井上朗、同井上泰治及び同井上憲行が各六分の一ずつ相続した。

五  よつて原告は不法行為による損害賠償請求権に基づいて、被告福岡市及び同環に対し、各自二六九〇万六八八四円及びこれに対する不法行為後である昭和四六年八月八日より支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを、被告俊次、同宮永和子、同井上朗、同井上泰治及び同井上憲行に対し、各四四八万四四八〇円及びこれに対する右同様の遅延損害金の支払いを求める。

第三請求原因に対する認否および被告らの主張

一  被告福岡市

1  請求原因一の1の事実は認める。

2  同2の事実のうち、昭和四六年の夏期休暇に、福岡市立博多第二中学校一年生が理科の「家庭でできる実験・観察・研究」という文書を配付されたことは認めるが、これは宿題として課されたものではなく、自由課題の参考資料として配付されたにすぎない。その余の事実は知らない。

3  同3の事実のうち、杉教諭が前記中学一年生の理科担当の教師であり、本件テキストを配付したこと、右配付資料中に、チオ硫酸ナトリウムを使用する結晶の実験、水酸化ナトリウムを使用する葉脈のしおりの実験が含まれていたことは認める。その余の事実は知らない。

4  同4の事実は知らない。

5  請求原因二の1の事実のうち、水酸化ナトリウムが「毒物及び劇物取締法」により取締りの対象となつていることは認めるが、その余の事実は争う。

6  同2の事実のうち、杉教諭が被告福岡市の公務員であることは認めるが、その余の事実は争う。

(一) 杉教諭の本件テキスト配付行為と本件事故との間には因果関係がない。

杉教諭は夏休みの課題を義務的なものとして課したものではなく、夏休みでなければできないような観察や採集などを中心に自由課題として課したものであり、夏休みという長期休暇中規則正しい生活をさせること、学習から遠ざからないこと、特に自主的な学習態度を養わせることを目的とするものであつた。ただ一部生徒から家庭ではそのような課題ではやりにくいので家庭でも容易にできる具体的な教材が欲しい旨の希望が出されたので、参考例として「理科の自主学習」という補助教材の中から「家庭でできる実験・観察・研究」の項をまとめてコピーして配付したものである。それはあくまで生徒の自主学習のテーマ選択の一助として参考例を示したものにすぎず、生徒としてはそれにとらわれることなく自由にテーマを選ぶことができたし、また理科の課題をしないこともできたのである。

原告は、宿題であつたか自由課題であつたかは被告福岡市の責任を減免する理由にはならない旨主張するが失当である。杉教諭はあくまで自由課題の参考例として示したのであつて、自由課題ではあるけれども選ぶならば配付した課題の中から選びなさいという趣旨ではなかつた。したがつて生徒は配付課題とは全く別のテーマを選ぶことができたし、そうであるならば、水酸化ナトリウムではない別の劇薬を使用することもありうるわけであつて、本件のような後始末の不十分さから別の形の裏故が発生することもありうる。したがつて、そのような危険は家庭生活中に生じうべきさまざまな危険と同質のものであつて、生徒自身及び父母の日常的な注意によつて回避されるべきものである。結晶の実験にしろ、葉脈の実験にしろ、実験そのものは中学一年生程度の事理弁識能力のある者が相当の注意をもつて行えば危険なものではないのであり、本件は実験そのものの過程で生じた事故ではなく、後始末を怠つたために生じた事故であることが重視されるべきである。

(二) 杉教諭には何ら過失がない。

劇物の一般家庭における取扱いの点について述べると、取締法一五条は毒物劇物営業者(同法三条三項)に対する取締規定であり、右以外の者が交付することは禁止されていない。即ち、営業者が非営業者に交付するには右取締法一五条の規制を受けるが、一旦交付を受けた非営業者(一般家庭人や教師もそうである)が、更に他の者に交付することは右一五条の規制を受けるものではなく、あとは非営業者が取締法一二条一項、二項による毒物または劇物なる表示に注意を喚起されながら一般的な注意のもとに管理すべきものである。

今日、一般家庭において劇物を取扱うことは稀ではなく、例えばサイフオン式コーヒー抽出器の使用燃料たる工業用のメタノール(別名メチルアルコール)は劇物に指定されている。本件は、一般家庭においてメタノールの保管が不適切のために事故が起こるのと全く同じ性質の事故なのであつて、この点からも本件のような事故は家庭における日常生活の一般的注意によつて回避可能でありかつ回避されることが期待されている種類のものといわなければならず、杉教諭の本件テキスト配付行為に何ら注意義務違反はない。

また、本件テキストは自由課題の参考資料として配付したにすぎないものであるから、杉教諭が水酸化ナトリウムの取扱いについて保護者に連絡ないし注意をしなかつたからといつて、何ら過失はない。

7  請求原因二の3および4の事実は知らない。

8  既に述べたように、水酸化ナトリウムの取扱いは、通常一般人の相当の注意をもつて危険の回避が期待され、また可能なのであるから(営業用など多量の場合は格別)、本件の事故は危険回避の措置をとることが期待できる立場にあつた被告環、外山富久子、井上真由美および外山真奈美において、通常人が払うべき普通の(特別の知識経験を要しない)注意を尽しておれば十分回避しえたと考えられるので、本件事故の責任はあげて右四名にあるといわなければならないが、特に被告環の責任について一言する。

井上医院においては、水酸化ナトリウムは取締法で定められたとおりの劇物の表示のある容器に保管されていた。被告環としては、水酸化ナトリウムの毒性についての具体的知識を有しなくとも、それが劇物であることはわかつたのであるから、これを二女井上真由美に実験用として交付するに際しては、その取扱いに留意すること、後始末を完全にすることを注意すべきであつたし、また外山富久子に対しては劇物を交付したから注意をしておいてくれといつた程度の連絡を当然しておくべきであつた。前述のように、被告環は取締法にいう営業者ではないから、同被告が水酸化ナトリウムを井上真由美に交付すること自体は取締法一五条の適用を受けないが、その際の危険回避は社会人一般としての相当の注意をもつてなされることが期待されるのであるから、学校の宿題だから危険がないと思つたというのは弁解にならない。

9  請求原因三の事実は知らない。

10  同四の事実は認める。

二  亡泰行関係

1  請求原因の一の1および四の事実は認めるが、その余の請求原因事実はすべて否認する。

2  被告環がその二女井上真由美に水酸化ナトリウムを供与した行為と本件事故との間には相当因果関係がない。

原告は本件事故当時二年九か月の幼児であつたとのことであるから、同人の飲食物の摂取等一切の動向についてはその父母において常に監督介護をなすべき責務があるところ、当時母親外山富久子も在宅していたものであるから同女において十二分に注意し介護に当るべきである。又、本件の実験については、被告環が事前に同被告方で行うことを希望したにもかかわらず、外山富久子より強く同女方で行うよう要請されたためにやむを得ず承認したいきさつもあり、実験についての外山真奈美等の挙動に関する指示注意や監督の責任もまた外山富久子にあつたものである。結局、本件事故は原告ら外山一家内での偶発的な出来事であり、亡泰行には何ら責任がない。

3  本実験に使用された水酸化ナトリウムは劇物ではなく劇薬であり、亡泰行にはその管理義務違背はない。

井上医院に置かれていた水酸化ナトリウムは白い容器に入れられ、赤字横書で「水酸化ナトリウム」、その右側に縦書赤字赤枠で「医薬用外劇物」、左側に青字青枠で「試薬特級」なる表示がなされている。試薬特級なる表示は客観的にその使用目的を示したものである。本件水酸化ナトリウムなる試薬は、医療用として病院または診療所に保管貯蔵されている限り、疾病の診断に使用されることが目的とされる物であり、薬事法二条一項二号により医薬品に相当する。更に同法四四条により劇性の強い医薬品として同法施行規則五二条別表第三の一七に劇薬として規定されている所以もそこにある。従つて試薬たる水酸化ナトリウムといえども、毒物及び劇物営業者の支配内にあるときは、その目的は販売譲渡であり、当然医薬用外劇物であるが、ひとたびそれが販売譲渡されて医療機関たる病院又は診療所の管理者の支配下におかれた時点で、それが疾病の診断に使用されるという使用目的が明らかである場合には、その保管貯蔵は薬事法四八条の規定に従えばよいのである。そして本件事故当時亡泰行が管理者であつた診療所にあつては、水酸化ナトリウムは劇物として他の物と区別して陳列貯蔵されていたことは勿論である。

三  被告環

1  請求原因一の3の事実のうち井上真由美が水酸化ナトリウムをチオ硫酸ナトリウムのつもりで受け取つたとの点は否認する。

2  同4の事実のうち水酸化ナトリウムの錠剤二〇個をコツプの湯に溶かしたとの点も否認する。原告の飲んだコツプの水がどこにあつたか、果して実験の残量であつたか否かの詳細は知らない。原告の病状の現状や将来の見通しについても知らない。

3  被告環が二女井上真由美に水酸化ナトリウムを与えた経緯

(一) 原告の姉外山真奈美と被告環め二女井上真由美とは共に当時福岡市立博多第二中学校一年生であり同じクラスに所属していた。従つて両人は時々井上家、外山家の何れにも行つて共に遊び又は共に勉強することもあり、自然その母親に当る外山富久子と被告環とは面識交際のある間柄となつていた。

(二) 昭和四六年七月の夏季休暇の時期に、右中学一年生は理科受持教師より宿題を課せられ、「家庭でできる実験・観察・研究」と題するテキストを交付されたが、その中には、「結晶をつくる実験---コツプの湯にチオ硫酸ナトリウム(又は他の薬品)を溶かし、よくかきまぜたとき底に薬品が少し残るようにする。この飽和溶液を値のコツプに入れかえ図のようにチオ硫酸ナトリウム(または他の薬品)の小片を糸でつるして静置しておく。」や「葉脈のしおりの研究---二〇%の水酸化カリウム(または水酸化ナトリウム)の水溶液又はセツケン液、オキシドール(市販のものを二倍にうすめる)」等の課題もあつた。

なお同生徒等の理科教科書「内藤卯三郎編再訂中学新理科1」の中「水と溶液」の項の中にも水酸化ナトリウムの記載がある。

(三) 同年七月末日頃から八月上旬にかけ原告の母親外山富久子より被告環に電話で又は来訪して、「真奈美がお宅の真由美さんと夏休みの宿題の理科の実験を一緒にしたいといつているので、私の家で一諸にさせて下さい」との申し出があつたが、被告環としては外山家には小さい子もおり店が多忙であるので、二人一緒にするなら自宅でさせた方がよいと考え、「お宅には小さい子供さんもいられるので私方でさせましよう」と申しでた。ところが、その内井上真由美は外山方で実験するようにいわれたと申し述べ、更に外山富久子が、「八月七日は父親が店の従業員と慰安旅行に出かけ一階の店の間があくので、鍵をかけてやらせれば安全だから、是非わが家で実験させて下さい」としきりに懇請されるので被告環は止むなく承諾した。

被告環はこの実験を自宅で行わせる意思であつたが、原告の母親外山富久子の強い要望により人間感情として拒否し難く遂におれ、外山方で行われることを承認したものであり、然る上は当然実験は母親外山富久子の監督の下に安全に行われるものと信頼し期待していたものである。

(四) 同年八月六日午後九時過ぎ頃井上真由美は被告環に対し「明日実験に必要な結晶の薬品を出してくれ」と申し出た。

院長亡泰行は静養のため数日前より福岡市東区大字名島の子供のところへ出かけて不在であり、被告環の夫の医師被告俊次も医師仲間の集会のことで外出不在中であり、被告環としても薬品に関する知識は余りないので「薬店で求めなさい」と言つたが、井上真由美は薬店に行くのを嫌がるようであり、更に外山家に買入代金で迷惑をかけてもすまないという気になり、被告環は自宅の診療室の薬品棚から、水酸化ナトリウムを中薬杯に軽く一さじ(小豆大の結晶約二〇粒位、二グラム程度)、ホウ酸、食塩、酒石酸各同量を取り出して、井上真由美と共にそれぞれ薬包紙に包み、薬品名を記載して同女に交付した。勿論、夏期宿題の実験研究のため必要限度として右の如く少量を与えたものである。ところで、それらを受取つた井上真由美は、右薬品のうちに湿気を帯びてくるものがあつたので、これらをそれぞれ定形郵便用封筒に入れかえたうえ、それぞれの薬品名を記載して、これらを原告方に持参したものである。

4  請求原因二の主張事実は争う。

5  被告環の薬品交付行為と本件事故との間には因果関係がない。

井上真由美が水酸化ナトリウムを実験研究用として外山方へ持参し実験に供しようとした段階においては、これは前述の如く外山富久子の強い要望に基づくものであり、外山家の主婦にして原告の母たる外山富久子に本件薬物類の使用管理についての監視監督責任が生じたものというべきであり、従つて右時点においては右薬品は被告環の管理支配から全く離脱したものであつてその使用監督に関しては同被告は何らかかわりがない。更に、右薬品に原告が接触することは予見できず、ましてやこれが飲用に供せられるなどとは全く夢想もしなかつた。

6  被告環には何ら過失がない。

被告環としては、当時チオ硫酸ナトリウムが自宅になかつたので、たまたま本件テキスト中の結晶実験の箇所に「または他の薬品」との記載があり、かつ右資料の他の箇所や前記理科教科書中に水酸化ナトリウムに関する記述もあつたところから、本実験のために必要であろうと考えたものであり、かつ右教科書等には別段劇薬とか、危険、危害、警戒の注意は記述されていなかつたので、これを中学生が実験、研究、学習に使用すること自体には何ら支障も危険も伴わないものと思料したので、必要限度量と考えた少量を交付したにすぎないのであつて、被告環には何ら過失はない。

なお、「家庭でできる実験・観察・研究」という資料は前記中学校の一年生全員に対し配付され夏期宿題として課せられたものであり、右課題を必ず学習報告すべき至上命令として受け取つた二女井上真由美から実験材料の交付を要求された被告環としては、母親として右要求に従うことは当然の義務である。

7  請求原因三の主張事実は争う。

8  同四の事実は認める。

三  被告環補助参加入

本件テキストは理科宿題をなすための参考資料であり、しかも中学一年の生徒が自主的に自由に課題を選択して(本件テキストに記載されているもの以外の実験も含む)家庭でできる実験を行うのであるから、 「結晶をつくる」実験を行うからといつて、その項に例示されている薬品類のみしか使用してはならないというわけではなく、従つて水酸化ナトリウムを使用してはならないというわけではない。

ところで、杉教諭が本件テキスト配付の際に、生徒は勿論その保護者に対してしかるべき注意を喚起することにより、またしかるべき説明をつくすことにより本件事故は未然に防止されえたものであるから、その注意義務懈怠は直接本件事故の原因とはなりえなくとも本件事故淵源の一条件をなすものである。杉教諭の本源的過失が明白である以上、被告福岡市はその使用者として、被告環を問責する以前の問題として教育行政上の責任をまぬがれることはできない。

第四抗弁(被告全員)

原告の姉外山真奈美としては、実験後にコツプを流し台に放置せずに残液を捨て去つておくべきであつたのにこれを怠つた過失によつて本件事故を発生させた。原告は当時いまだ二年いくばくかのいたずらざかりの幼児であつたから、その母親たる外山富久子としては、常にその動静に留意し、友人柳原己代子の接待のため又は原告の求めに応じて紅茶を入れるときも、原告の不用意な行動に十分注意する義務があるにもかかわらずこれを怠つた。更に外山富久子としては、自宅を外山真奈美・井上真由美の実験場として提供しており住居内のできごとについて管理可能の立場にあつたのであるから、外山真奈美の親権者として実験の経過に関心を持つべきであり、外出に際しては後始末を十分するよう注意し、特に外出先から帰宅した際には後始末の確認をすべきであつた。これは水酸化ナトリウムの毒性の認識の有無とは関係がない。

右両名の過失はいずれも被害者側の過失として、原告の損害額の算定にあたつては考慮されるべきである。

第五抗弁に対する原告の反論

原告の母たる外山富久子としては、中学校における理科担任の教師たる杉教諭が家庭における夏期宿題として、劇物水酸化ナトリウムを使用するがごとき人の生命身体に危険(その危険性は単に本件のごとくこれを経口した場合だけではなく、皮膚に触れても腐蝕性皮膜炎をおこす)を及ぼす実験を課すなどとは一般に考え得るところではなく、又市井の母として被告環より交付された薬包の水酸化ナトリウムという表示が劇物を表示するものであると知る由もなく、それ故に外山富久子がその家庭における娘等の本件実験を監督しなかつたとしても何ら同女に過失はない。又、同女が帰宅した際、放置されているコツプに気づいてこれに疑いをいだかなかつたとしても、右コツプ内の液は無色透明であつて外見的には水と異なるところはなく、右コツプに疑いをいだかなかつたことをもつて直ちに同人の過失ということはできない。

よつて本件の責任はあげて被告らにあり、仮に外山富久子にその責任があつたとしても(その責任として考えられるのは、右に述べたところに鑑みて、外山富久子の娘に対する、理科の実験などの後はその残滓を直ちに捨て去るというしつけ教育の足らなかつたことくらいである)、それは被告らの責任に比してきわめて小さいものである。

第六証拠〈省略〉

理由

一  本件事故発生に至る経緯

1  本件テキストの配付及びその性質

〈証拠省略〉を総合すると以下の事実が認められる。

福岡市立博多第二中学校第一学年の理科担当教師杉教諭は、昭和四六年度夏期休暇に入る直前の自己の担当する理科の授業中に、本件テキストを外山真奈美及び井上真由美を含む同校一年の生徒に配付したが、それは「理科の自主学習」と題するワークブツク中の各単元の最後にある「家庭でできる実験・観察・研究」という見出しのついた頁を全部プリントしたものであつた。それによると、二一種類の実験、観察及び研究につき、それぞれ準備、方法、考察等が簡潔に要約されて記載されているが、その一つに「結晶をつくる」実験があり、その準備欄には「食塩・チオ硫酸ナトリウム・ミヨウバン・ホウ酸のどれかを五〇g、さら、コツプ、わりばし、糸」と記載され、その方法欄には「〈1〉こい食塩水をつくり、さらに入れて日光が直接当たらないところに置いて、水分を蒸発させ、あとに残つたものを観察する。」という説明とその図示があり、更に「〈2〉コツプの湯に、チオ硫酸ナトリウム(または、他の薬品)を溶かし、よくかきまぜたとき底に薬品が少し残るようにする。この飽和溶液を他のコツプに入れかえ、図のようにチオ硫酸ナトリウム(または、他の薬品)の小片を糸でつるして静置しておく。」という説明とその図示があり、考察欄には「〈1〉・〈2〉の結晶を見比べてすべての結晶に共通なことがらを調べてみよ。また、できるだけ大きな結晶をつくるためには、どうすればよいかを考えよ。」と記載されている。他の一つには「葉脈のしおり」の研究があり、その準備欄には「薬品:二〇%の水酸化カリウム(または水酸化ナトリウム)の水溶液またはセツケン液、オキシドール(市販のものを二倍にうすめる)、食酢、材料:ヒイラギ・モクセイ・ツバキなどの肉の厚いかたい葉、わりばし、下じき、古ブラシ、新聞紙、あきカン、インキまたは絵具、小さなさら数まい」と、方法欄には「あきカンに水酸化カリウムの水溶液を七分目ぐらい加え、中に材料の葉を入れてときどきかきまぜながら熱すると、葉肉が水酸化カリウムにおかされるので、液の色はやがて茶色になり、しだいにこくなる。約二〇分後(葉の種類や液のこさでちがう)、下じきの上にとり出し、水をすこし注ぎながら古ブラシでたたくと、葉肉がきれいにとれる。これで葉脈標本がとれる。以下、図のようにすると美しい葉脈のしおりをつくることができる。」と各記載され、右方法が図示されている。

杉教諭は、生徒に普段できないような長期間にわたる継続研究等を夏休みの機会にするように指導したところ、生徒から家庭で簡単にできる実験等を具体的に提示してほしい旨意見が述べられたので、その求めに応じて、本件テキストを配布したのであるが、その際特に水酸化ナトリウムの危険性、取り扱い方等につき格別の注意をしてはいない。

(ところで原告は、本件テキスト中に記載されている実験等を行うことが強制的な課題として杉教諭によつて生徒に課されたものである旨主張し、被告福岡市はこれを争うが、いずれにしろこれが本件結論に影響を及ばすとは解されないこと後述のとおりなので、特に判断を示さない。)

2  外山方で実験が行われることとなつた経緯

当事者間に争いない事実と、〈証拠省略〉によれば以下の事実が認められる。

昭和四六年八月当時福岡市立博多第二中学校一年に在学中の井上真由美は被告環・同俊次の二女で、同俊次は父の亡泰行とともに医師として住居のあるその肩書住所地(福岡市博多区川端町一四番三〇号)において内科及び放射線科の診療所(井上医院)を開設し、亡泰行が院長として管理運営を司つていた。

他方外山真奈美は原告法定代理人親権者両名の長女で、井上真由美と同じクラスに所属していた。

ところで、昭和四六年八月一日は右中学校の出校日であつたところ、外山真奈美は学校において被告環の二女井上真由美から、同女の姉が中学時代に結晶の実験をしたことがあるので、一緒に右実験をしてはどうかとの提案を受けたのでこれに応じ、二人共同して実験を行う約束をした。同月五日の昼頃に井上真由美から外山真奈美に対して、井上方にはいとこが来ていて差支えるから、同日外山方で前記実験をすることはできないかとの電話があつたので、外山真奈美が母親である外山富久子に右電話の内容を伝えたところ、同女から同日は店の者が居るので都合が悪いが翌々日の七日なら社員は慰安旅行にでかけて不在となるからよいとの返事を得た。そこで外山真奈美と井上真由美とは、八月七日に原告方で本件テキスト中の前記結晶をつくる実験をする約束をしたが、その際井上真由美は、実験に必要な薬品のうちで自宅(井上医院)にあるものは持参する旨約した。

ところで被告環は、外山方で実験が行われることとなつたのは外山富久子の強い要望によるものであつた旨主張し、〈証拠省略〉中には右主張に沿うかの如き部分があるが、〈証拠省略〉に照らしてにわかに措信できず、他に前記認定を覆えすに足りる証拠はない。

3  被告環が井上真由美に薬品を交付した経緯

〈証拠省略〉によれば、以下の事実が認められる。

昭和四六年八月六日午後九時すぎ、井上真由美は母親である被告環に対し、翌七日に外山方において行われる予定の実験に必要な薬品の交付を求めて、本件テキスト中の結晶をつくる実験の箇所を示した。そこで、被告環は本件テキストに眼を通したうえで、台所から食塩を、亡泰行の経営する井上医院の診察室の薬棚の中段からホウ酸と酒石酸を、右薬棚の上段から水酸化ナトリウムを、それぞれ中薬さじ一称(約二g)ずつとり出して、それぞれを薬包紙に包み薬品名を明記したうえで井上真由美に交付した。ところで、本件テキスト中「結晶をつくる」実験の項には、前記のとおり準備すべき薬品として「食塩・チオ硫酸ナトリウム・ミヨウバン・ホウ酸」が列記されていたが、井上方にはチオ硫酸ナトリウムとミヨウバンはなかつたので、被告環はミヨウバンの代りに酒石酸を、チオ硫酸ナトリウムの代りに水酸化ナトリウム(固形のもの---結晶)をそれぞれ取り出したのであるが、水酸化ナトリウムを取り出したのは、結晶体であればよいのであろうと考えたこと及び本件テキスト中の「葉脈のしおり」の研究の箇所に、前記のとおり準備すべき薬品として、水酸化ナトリウムという記載があつたことから、この薬品でもチオ硫酸ナトリウムの代用品となり得るであろうと考えたからであつた。

ところで水酸化ナトリウムは薬棚上段1111の赤枠に赤字で「劇薬」と表示された白ラベルが貼られた棚に、白いポリエチレン製容器に入れられて置かれていたが、その容器の外側表面には、中央に赤字横書で「水酸化ナトリウム」、左側に青枠青字で「試薬特級」、右側に赤枠赤字で「医薬用外劇物」と記載されていた。しかし被告環は、少量を実験に使うのであるし、教科書等に記載されている薬品でもあるからという理由でそれほど危険とは考えなかつたので、一応、外山方には小さな子供がいるから実験中のところに入つてこないように注意しなさいとのみ言い添えて、前記薬品を井上真由美に手渡したものである。なお、以前に長女がやはり結晶をつくる実験をした時には、被告環は夫の被告俊次に申し出て薬の交付を受けたのであつたが、当夜は被告環の父親亡泰行は二、三日前から留守であつたし、夫の被告俊次も医師の会合で留守であり(帰宅したのは翌朝午前一時頃)、更に街の薬局で購入することは井上真由美が、夜であつたこともあつてこわがり或いはおつくうがつていたし、翌朝になれば診察室は混雑することなどを考えて、実験のための少量であればよいであろうと思つて、独自の判断で薬品を交付したものであるが、被告環はそのことを本件事故発生後まで被告俊次に報告するのを怠つていた。

4  実験の施行から事故発生に至る経緯

〈証拠省略〉によれば以下の事実が認められる。

昭和四六年八月七日昼すぎ頃やつてきた井上真由美は、午後一時ころから外山真奈美と外山方の一階で結晶をつくる実験を開始し、まず食塩水を鍋で暖めて水を蒸発させる方法で結晶を作ろうとしたができなかつたので、次にいわゆる冷却法による実験をすることとし、包み紙に記載された薬品名によつてチオ硫酸ナトリウムでなく水酸化ナトリウムであることを認識しながら、そのほぼ全部をウイスキーグラス半分位の水に溶かし、箸の先に糸で水酸化ナトリウムの結晶をつるしてこれを右グラス中の溶液に浸して、本件テキスト中チオ硫酸ナトリウムを使つての結晶をつくる実験と全く同一の手順・装置をふみ(チオ硫酸ナトリウムの代りに水酸化ナトリウムを使つた点のみが異るが、これが右両物質の化学的性質の相違上決定的な差をもたらす---つまり右方法による水酸化ナトリウムを使つての実験では結晶はできない---ことは後述する。)、そのうえでグラスごと二階炊事場の冷蔵庫に入れて冷却し、約四〇分後に取り出したが、結晶はできなかつたので、実験は中止することにしたが、外山真奈美と井上真由美は前記グラスを水酸化ナトリウムの水溶液が入つたままで冷蔵庫横の流し台の上に置いたまま捨てるのを忘れ、炊事場と廊下をへだてた部屋に退いておしやべりを続けていた。

一方、外山富久子は午後二時ころに原告(昭和四三年一一月二〇日生、当時二才九ケ月位)を連れて華道のけいこのために外出し、午後四時すぎに柳原己代子と連れだつて帰宅した。そして前記炊事場の部屋に入つて右柳原に麦茶を出した後、原告のために紅茶を入れようとしていた時に、原告は流し台の上に置かれてあつた前記グラスを手にして中の溶液を飲んだが、その途端に叫び声をあげ、口からは唾液を出し、両手はけいれんし始めた。そこで原告は直ちに母親外山富久子に伴われて原小児科医院に行き、胃洗滌をされ、同医院に八月二四日まで入院した。そして同日、九州大学附属病院第二外科に転医したが、次第に食道狭窄の症状が明らかとなつて来たので、九月二七日以降つごう四回のブジーによる食道拡張術を行ない、同病院を一一月三日に退院した後も、食道拡張術を施してもらうために、最初の一年間は三週間に一度その後は四週間に一度の割合で、昭和四九年四月頃まで時折右病院に入院を重ねた。

5  原告の後遺症

〈証拠省略〉によれば以下の事実が認められる。

ブジーによる食道拡張術を施すと、その後二・三日、場合によつては一〇日位はそうめんやよくかんだパンが通ることがあるが、その後再び食道狭窄が起こるので、三ないし四週間に一度三ないし四日間ずつ入院して食道拡張術を受けていたが、食道の拡張が期待通りに進まないことからしばらく様子を見ようということになり、昭和四九年四月の入院を最後にブジーによる食道拡張術は一応打ち切られた。現在原告は、へその左横から胃の中へ約四五cmのゴム管を通し、その体外に出ている部分の先端から大型浣腸器を使用して流動性の栄養物を胃に注入することによつて栄養を摂取しているが、普段は胃液の漏出を防ぐために右ゴム管の先端を器具で挟み絆創膏で腹部に貼り付け、更に入浴の際には腹帯をすることを要するという日常生活をおくつている。又、原告は知能の発育及び言語機能は正常であるが、肺炎・気管支炎を起こしやすく、重い物を持ち続けることができない。

なお、考えられる治療法としては、原告が一九才ないし二〇才になつて成長がとまつた段階で、原告の腸管を一部分(約一〇cm)切り取つて食道の狭窄部に置き換えるという手術があるが、この手術は成功すれば原告をして通常の生活を可能ならしめる一面、約二か月の入院を要し、開胸手術であるので危険性を伴い、失敗した場合は原告を死に至らしめることもあり、かなり難しい手術である。

二  被告らの責任

1  水酸化ナトリウムの性質等について

被告らの責任を考えるに先だつて、先ず水酸化ナトリウムが法律上いかなる規制をうけるかについて一瞥しておくと、それは一般的には薬事法上の劇薬---劇性が強いものとして厚生大臣の指定する医薬品(四四条二項)---でもあり(同法施行規則五二条)、他方取締法上の劇物でもあるが(二条二項)、医院を経営する亡泰行方の薬棚に前記方法で保管されている実状(薬事法四四条二項、取締法一二条一項参照)に徴すると、結局、本件の水酸化ナトリウムは薬事法上の劇薬及び取締法上の劇物に各該当するものとして保管所持されていたものであると認められる。

また、経験則によれば、水酸化ナトリウムは無色の固体(結晶)であるが潮解性を有し、医薬用の他広汎な用途を示すが、劇薬・劇物であり、濃水溶液は脂肪・タンパク質・セルロースなどの動植物質をおかすから、からだ・きものなどにつけないようにしなければならないとされているものである。

2  被告環の責任

(一)  過失の存否

第一項で既に認定したように、被告環は、本件テキスト中の「結晶をつくる実験」の箇所には記載のない水酸化ナトリウムでも右実験に必要なチオ硫酸ナトリウムの代用品たりうると考えて水酸化ナトリウムを取り出したものである。ところで、水酸化ナトリウムの潮解性に着目すれば、それを代用晶として使用して前記したチオ硫酸ナトリウムを使つた結晶をつくる実験と同一方法で結晶をつくるには不適であることは明白であり、仮りにこの点の知識が被告環に欠如していて、通常人にとつてもそれが一般的ではないかとも考えられる点で、右行為をとらえて同被告の過失と即断できるかは、なおちゆうちよするのであるが、しかし、たまたまチオ硫酸ナトリウムが結晶をつくる実験の材料と指摘されていたところから、単に同被告方(亡泰行経営の井上医院)の薬棚に固体として保管されていた水酸化ナトリウムに目をつけ、しかもそれが本件テキスト中の「葉脈のしおり」の研究の箇所に、準備すべき薬品として掲げられているということから、水酸化ナトリウムでも結晶をつくる実験材料のチオ硫酸ナトリウムの代用品たりうるものと考えてそれを二女の井上真由美に交付したのは軽率と批判されても致し方なく、これを目して、民法七〇九条にいう過失に該当すると解するのが相当である。

しかも、その上に、水酸化ナトリウムは他の薬品とは区別されて「劇薬」と表示された棚に、しかも「医薬用外劇物」との表示のあるポリエチレン製容器に入れられて保管されて、それが劇薬・劇物であることの認識は有していたのであるから、被告環としては、右表示を軽視することなく水酸化ナトリウムに限らず劇物ないし劇薬一般の有する危険性に思いをいたし、被包紙に水酸化ナトリウムの危険性に対する注意を喚起するような記載をなし、或いは井上真由美に対して右危険性を十分に説明して取扱い上の注意を促すべき注意義務があるのにこれを怠り、もし、同被告が水酸化ナトリウムの危険性について知らなかつたとすれば、正確な知識を有する者に確認するなり、その管理責任者---これは後記のとおり訴訟承継前被告亡泰行である---の手を通して、井上真由美に交付する方法をとることにより、右危険性の認識について、当時中学一年生である二女井上真由美に十全ならしめて、その取扱いを全からしめる注意義務があることは容易に想起しうべきであるのにこれを怠り、実験の目的で使用され少量であるからそれ程危険はないであろうと安易に考え、右記載ないしは井上真由美への薬品の危険性の喚起等をすることなく漫然と水酸化ナトリウムを交付したのは、被告環の過失と解されても致し方ないといわざるをえない。このことは、水酸化ナトリウムを使つた研究が、学校教師からだされた本件テキストを使つての夏休みの宿題に入つていたからといつて原告に対する関係で何らの消長をきたすものではない。尤も、既に認定したように、被告環は薬品交付の際井上真由美に、外山方には小さな子供がいるから実験をしているところに入つてこないように注意するようにと申し向けたのであるが、〈証拠省略〉によれば、これは薬品の有する危険性に対する注意を喚起したものではなく、実験が原告によつて妨害されないようにとの趣旨で述べられたものと認められ、これのみで同被告の注意義務が完全に尽くされたというには程遠いことも多言を要しない。

(二)  因果関係の存否

人が水酸化ナトリウムの水溶液を過飲するという行為が稀な事態であることはいうまでもないが、それは一見しただけでは劇薬・劇物と判明できかねる外観を呈しており、殊にグラスに入れた状態では一般の飲料用のものと見誤りかねないこと及び誤飲もたまにはあるので、その応急措置として酢やレモン汁を入れた水を大量に飲むか、牛乳、卵白などを飲むとよいとされていることも経験則上明らかであり、これらの事実に被告環は外山方に幼児(原告)がいることを認識していたこと、本件事故は被告環が薬品を取り出し交付した日の翌日に、同被告の二女井上真由美と原告の姉外山真奈美が共同で実験を行ない、それを中止した直後に、夏場の外出から帰宅した原告が右水溶液を飲料用と誤つて飲んだ事故であること等前記の本件事故に至る事情を考慮すれば、原告が水酸化ナトリウムの水溶液を過飲したことは通常予想し得ないものではなく、被告環の薬品交付の際の前記認定の過失との間に相当因果関係があるものと解するのが相当である。(この点につき被告環は、本実験は外山富久子の強い要望により原告方で行われることとなつたものであるから、水酸化ナトリウムに対する管理支配の責任は外山富久子に移行したものであり、その後発生した本件事故に対しては同被告は何ら責任を負わないものである旨主張するが、本実験が原告方で行われることとなつたのは井上家側の事情によるものであつたことは既に第一項で認定したところであり、本実験は井上真由美も一緒にしたものであることに照らすと右主張は採用できないところである。また仮に、事実が被告環主張のとおりであるとしても、被告環(医師を父と夫にもつ)と外山富久子(夫外山久雄は商事会社に勤務する経済人)の占める地位から推して、いずれも化学に関する専門的知識に関してさほどの差があるとは解されないことに鑑みるとき、原告に対する関係で、被告環の責任の存否に格別の差異を招来させるものとは考えられない。)

3  亡泰行の責任

(一)  過失の存否

〈証拠省略〉によれば、被告環の実父である亡泰行は、昭和四六年ころは、足の化膿に起因する発熱のために二、三か月に一度診療を休んでおり、同年八月六日の夜も身体の具合が悪いために名島にある被告環の弟の家に行つていた事実が認められるが、前記認定の、井上医院における医師亡泰行と被告俊次の関係、亡泰行が院長をしていたこと及び弁論の全趣旨(亡泰行及び被告環・同俊次の各主張)を総合すると、井上医院内の薬品の管理義務者は亡泰行であつたと認定することができる。ところで、井上医院に保管されていた水酸化ナトリウムが薬事法上の劇薬及び取締法上の劇物に該当することは既に認定したところであるが、劇薬・劇物については、その有用性が高い反面、その危険性も高いが故に、薬事法及び取締法上その法目的に照らしてその管理者・取扱者に厳重な保管責任を課しているものである。医師たる亡泰行に要求される劇薬・劇物(本件では水酸化ナトリウム)の保管者としての義務は、同居している子供である被告環が一緒に医師として井上医院を切り盛りしている被告泰行の許可も得ずに自由に取り出しうるような管理体制で不十分極まりないこと自明の理であることに鑑みるとき、十分に尽くされているとはとてもいえず、これを目して亡泰行にも民法七〇九条にいう過失が存するものと解すべきことも明白である。薬棚及び薬品をいれた容器に劇物・劇薬を示す標示をしているだけでは民事法上十分な管理義務が尽くされたとは到底解しえない。

(二)  因果関係の存否

亡泰行の前記過失と本件事故との間の因果関係の有無につき判断するに、原告の水酸化ナトリウム水溶液の過飲という行為は稀なことではあるが通常予想し得ないことではなく、特に、亡泰行の娘である被告環が勝手に薬品を取り出したことが本件事故の一因をなすものであること、本件事故は亡泰行の孫である井上真由美がその友人外山真奈美と共同で行なつていた実験を中止後数時間を経ないうちに起こつた事故であること、劇薬・劇物が法により厳重な保管責任を課していることは、その危険性につき十分な知識を有しないものによつて誤用され、重大な結果をひきおこしかねないことが考慮されていること、本件事故はその意味で典型例とも解しうること等の諸事情を勘案すれば、亡泰行の前記過失と本件事故との間には相当因果関係があるものと解するのが相当である。

4  被告福岡市の責任

(一)  杉教諭の過失の存否

杉教諭は夏休みに入る前に、宿題として井上真由美・外山真奈美を含む中学一年の生徒に本件テキストを配布したが、その際水酸化ナトリウムの危険性、取り扱い方等につき格別の注意をしていないことは先に認定したとおりである。ところで、中学校の理科担当教師に関していえば、水酸化ナトリウムが危険なものであり、取締法上劇物に指定されているものであることは十分知り又は知りうべきものであるから、教師自らが十分看視、監督できうるときに水酸化ナトリウムを使つた実験、研究をやらせること(学校教育における教師指導下での実験実習等はその典型である。)は当然としても、それが十分期待出来ないようなとき(家庭学習における、その物自体が高度の危険性を有するのにその物自体からそれがわからず、又はそれが熟知されておらないような物質を使うた実験実習等はその典型である。)は、教師自らが十分看視、監督できうるときと同程度のこれに代りうる措置をとることが要求されるといわなければならない。このことは劇物の高度の危険性及びこれを前提にして取締法がその管理責任につき厳重な注意義務を課していること並びに中学一年生の一般的な能力水準等に思いを致せば容易に理解できるところであり、この理は、〈証拠省略〉中に水酸化ナトリウムの危険性(注意事項)についての記載があり、また〈証拠省略〉より、杉教諭が中学一年生の第一学期中の理科授業において一般的に実験用薬品の危険性とその取扱い方につき十分注意をくり返してきていたことが認められる事実により、あるいは本件テキストによる宿題が強制的なものであつたか自由課題的なものであつたかにより、格別左右されるいわれはないと解するのが相当である。

本件についてこれをみるに、〈証拠省略〉によるも、杉教諭が右に述べたような中学校理科担当教師としてとるべき措置をとらなかつたことが認められるのだから、杉教諭に過失があつたものと解するのが相当である。

(二)  因果関係の存否

そこで次に、右杉教諭の過失と本件事故との間に因果関係があるか否かにつき考えるに、井上真由美及び外山真奈美は「結晶をつくる実験」を計画しかつ実施したものであるところ、同実験の際に準備すべき薬品として水酸化ナトリウムは記載されていなかつたにも拘らずこれを右両名が使用したのは、被告環が水酸化ナトリウムが本件テキスト中別の箇所の「葉脈のしおり」の研究欄に準備用薬品として記載されチオ硫酸ナトリウムの代用品たり得ると考えてこれを同被告の二女井上真由美に交付したためであること、右真由美が、自宅が医院であるところからその母親である被告環に実験に必要な薬品の交付を要求し、同被告が右要求に応じて薬品を交付するに際し、水酸化ナトリウムの容器に表示された前記危険性についての注意を喚起させるに足る記載を十分認識しながら、右薬品が危険なものである旨特に注意も表示もしなかつたという同被告の過失行為が存したために、実験をした井上真由美及び外山真奈美に対して右薬品の危険性に関する注意の喚起がなされなかつたという事情が存するのであつて、かような尋常でない行為の存在が本件事故の重要な一因であること、更に、本件事故の直接の原因は、実験を行つた右二名が使用ずみ薬品の後始末という基本的な義務を怠つた点にあること等の事情を勘案すれば、杉延孝の前記過失と本件事故との間には、通常予想し難いといつてもおかしくない行為が三個も介在しているのであるから、杉教諭の前記過失と本件事故との間には相当因果関係の存在は認められないという被告福岡市の主張にもかなりの説得力があるといわなければならない。

しかしひるがえつて考えるに、水酸化ナトリウムという劇物(中学校教師の立場からいえば、劇薬でなく劇物としての意味しかない。---尤も、このことは本件において格別の意義を有するものではない。)の取扱い方を、中学一年生の夏休みの宿題として自主性に任せたという点において杉教諭の前記過失は極めて大きなものと評価できるばかりでなく、そのなすべき注意義務の懈怠が本件事故発生の発端を形成しており、これが後続する亡泰行及び被告環並びに水酸化ナトリウムを使つた実験中止後のその水溶液の後始末を怠り、あまつさえそれをウイスキー用グラスに入れたまま炊事場にある冷蔵庫横の流し台の上に放置したという井上真由美・外山真奈美らの基本的な過失と相侯つて、重大な本件事故を発生せしめたこと、しかも右一連の連続的な過失の流れの中で、杉教諭の過失と井上真由美・外山真奈美の過失が本件事件の発端と結末に厳然と位置していて、一本の太い必然的な因果の流れを形成しているとみうるのであつて、その間に亡泰行及び被告環の過失が介在したとしても、右の因果の流れを左右するに足りないものと解するのが相当である。これは、杉教諭が夏休みにおける自宅学習教材資料として水酸化ナトリウムを使用する研究(葉脈のしおりの研究)をその一つとして摘示しながら、右薬晶の危険性、取扱い方等につき何ら具体的指示をなさず、専ら生徒の自主的な管理に委ねたと解される態度からも、さほどの困難もなく理解しうるところであろう。

以上のような考察の結果、結局杉教諭の過失と原告がおこした本件事故との間には、相当因果関係があるとの理解に到達するのである。

(三)  被告福岡市の責任

前記認定事実及び〈証拠省略〉によれば、杉教諭は本件事故当時被告福岡市の設置管理する福岡市立博多第二中学校の教諭であることが認められるところ、同教諭の過失により、学校教育の一環として行われた同校生徒の夏休みの宿題実施の過失を経て本件事故が発生したことは先に詳述したところである。そして、杉教諭の右教育活動は国家賠償法一条一項にいう公権力の行使と解することができるから、結局被告福岡市は当該公共団体として、本件事故により原告の被つた損害を賠償する責任があるといわなければならない。

三  損害

1  治療費 九四万一八〇一円

〈証拠省略〉によれば、原告の蒙つた食道狭窄の治療のためには、昭和四六年八月七日から昭和五一年二月九日までの間に原小児科医院及び九州大学医学部附属病院において九四万一八〇一円の治療費を要したことが認められる。

2  付添看護費 三〇万四二〇〇円

〈証拠省略〉によれば、原告は昭和四六年八月七日から同四九年四月一七日までのうち合計二三二日間原小児科医院又は九州大学医学部附属病院に入院したことが認められるが、更に原告の病状及び原告が昭和四三年一一月生れの幼児であることと弁論の全趣旨をあわせ考えれば、その入院期間中母親の外山富久子が原告に付添つて看護したことが推認されるところ、そのための費用は当時の経済事情等を考慮すれば原告主張額の一日一三〇〇円を下らないものと推認できるので、これを計算すると三〇万四二〇〇円となる。

3  逸失利益 五三三万三三〇六円

原告が本件事故当時二才九か月の幼児(昭和四三年一一月二〇日生)であつたことは当事者間に争いがなく、又〈証拠省略〉によれば、原告は当時発育順調な女子であつたことが認められる。そこで、逸失利益の計算においては原告主張のとおり原告を満三才の女子であつたとして扱うことに特に差支えはないが、三才女子の平均余命が七〇年を越えることは当裁判所に顕著な事実であるから、これと原告の健康状態とによれば、原告は満一八才時より満六七才時までの四九年間通常の女子労働者と同程度に就労して収入を得たものと推認される。しかるに原告には第一項5で認定したような後遺症が残つたのであり、右障害は概ね自賠法施行令別表の第三級二号の「そしやく機能を廃したもの」に相当すると考えられるが、原告はそのような日常生活上の困難な問題を抱えながらも、現在は小学校に通い、激しい運動はともかく普通の学校行事には一応耐えてきており、将来全く労働能力を失つたということもできず、また手術のもつ危険性からその実現は必ずしも期待できないが、原告が稼働年令に達する頃までには手術により通常の生活に回復する可能性もあり得るので、その点も考慮に入れ原告の労働能力の喪失率を七〇%とし、これが前記稼働可能期間継続するものとするのが相当である。そこで、昭和四八年度賃金センサス第一巻第一表産業計・企業規模計・学歴計・女子労働者(パートタイマーを除く)の平均給与額(毎月の給与額五万八九〇〇円、年間賞与等一六万五〇〇〇円)を基礎として、労働能力喪失率七〇%による四九年間の逸失利益の本件事故時の現価額を、年五分のライプニツツ方式により中間利息を控除して求めると、次の算式により五三三万三三〇六円(円未満四捨五入、以下同じ。)となる。

五万八九〇〇円×一二+一六万五〇〇〇円=八七万一八〇〇円

八七万一八〇〇円×〇・七×(一九・一一九一-一〇・三七九七)≒五三三万三三〇六円

4  慰藉料 八〇〇万円

原告には前記のように食道狭窄の後遺症が残り、食物の経口摂取は困難であつて腹壁に通したゴム管によつて栄養を摂取しているという状態であり、将来の手術による回復の可能性がないのではないが、その手術はかなりの危険を伴い、死に至る危険性もあること、仮に成功したとしても開胸手術により胸部・腹部に手術痕を残すこととなるのであつて、原告の女性としての将来に対する不安感その他前記認定の諸般の事情を考慮すれば、原告に対する慰藉料としては八〇〇万円を相当と思料する。

5  過失相殺

本件事故は、原告の姉である外山真奈美が級友の井上真由美とともに薬品を使用して実験をした後、きちんと後片付けをすべきであるのにこれを怠り、漫然と水酸化ナトリウム水溶液の入つたグラスを流し台の上に置いたままにした過失に直接起因することは先にるる述べたとおりであるが、更に、原告の母である外山富久子としても、外山方において(従つて被告環・同俊次らは少くとも直接の看視、監督は期待できない状況下において)その長女外山真奈美が井上真由美とともに当日薬品を用いて実験を行なつていることは十分認識していたのであるから、劇性の認識の有無に拘りなく実験の後始末について外山真奈美、井上真由美の注意を喚起すべきであつたのにこれを怠つた過失があるといわねばならない。

そして、これらの過失(原告の母外山富久子及び原告の姉外山真奈美の各過失)はその主体と原告との関係に鑑みて、被害者側の過失として原告の損害額の算定にあたつて過失相殺として考慮すべきであり、その割合として六〇%を減額するのが相当である。

そこで1ないし4の合計額一四五七万九三〇七円に六〇%の過失相殺をすると五八三万一七二三円となる。

6  弁護士費用 七〇万円

原告法定代理人親権者両名が、原告のために本件訴訟の提起・追行を、その訴訟代理人弁護士に委任していることは本件記録により明らかであるが、本件事案の内容、審理の経過、認容額等諸般の事情を考慮すると、原告の請求しうべき弁護士費用の本件事故時の現価は七〇万円をもつて相当と認めるところ、これは原告の被つた本件事故と相当因果関係にある損害と解される。

以上によると、本件事故により被つた原告の損害額合計は六五三万一七二三円となるところ、被告環、亡泰行及び被告福岡市の各負担すべき右賠償債務は不真正連帯債務の関係に立つものと解すべきである。

四  承継

亡泰行が昭和五〇年五月五日死亡し、被告環、同俊次、同宮永和子、同井上朗、同井上泰治及び同井上憲行が亡泰行の権利義務を各六分の一ずつ相続したことは、当事者間に争いがないので、結局同被告らは一〇八万八六二〇円宛の損害賠償義務を相続により承継したことになる。

五  結論

以上の次第であるから、被告環及び被告福岡市は原告に対し連帯して六五三万一七二三円及びこれに対する本件事故日の翌日である昭和四六年八月八日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があり、被告井上朗、同井上泰治、同井上憲行、同宮永和子及び同俊次は原告に対し各一〇八万八六二〇円宛及びこれに対する前同様の昭和四六年八月八日から支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。

よつて、原告の本訴請求を右の限度で正当として認容し、その余の請求をいずれも失当として棄却することとし、民訴法八九

条、九二条、九三条、九四条、一九六条を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 権藤義臣 簑田孝行 古賀寛)

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